開基 永宗院 古梵 永徳元年 (1381年)二月二十八日寂
真言宗ヲ修ス
二世 芳院 宗祐 應永二年 (1395年)四月十四日 寂
三世 悦院 祐玄 文安二年 (1445年)四月 七日 寂
四世 欣真院 玄了 明徳五年 (1497年)六月二十日 寂
文明五年(1473年)真宗に帰し蓮如上人の弟子となり寺基を定め永宗寺と改む
五世 深定院釋宗智 大永六年 (1525年)九月 十日 寂
六世 究乗院釋了智 天文七年 (1538年)十月二十一日寂
七世 猶山院釋宗玄 永禄十年 (1567年)三月二十四日寂
新川郡高野之郷浜黒崎村に一宇を建立す
八世 潤生院釋宗善 文禄三年 (1594年)正月 七日 寂
九世 目力院釋善明 寛永十年 (1633年)十月二十七日寂
元和九年(1623年)八月二十一日東本願寺末となり開山聖人御影並本尊を宣如上人より賜ふ即同年十月十二日也
十世 釋明賢 寛文十二年(1672年)六月二十二日寂 六十一歳
慶安四年(1651年)富山今町に移りて寺を建つ
十一世 釋知閑 元禄四年 (1691年)二月二十九日寂 六十一歳
天和年中 類焼に罹り此時什器宝物は多分鳥有となる
十二世 正定院釋智哲 享保十七年(1727年)五月二十五日寂 六十一歳
十三世 樹心院釋観知 明和 元年(1764年)十月 朔日 寂 六十五歳
却説當代には類焼に罹りたることあれも年月日詳ならす
十四世 唯信院釋智賢 安永六年(1777年)八月二十日 寂 四十九歳
十五世 密行院釋智渓 寛政十二年(1800年)正月十一日 寂 五十二歳
安永九年(1780年)触頭極性寺より山號等の御調達に付黒崎山永宗寺と書上る 寺社奉行は堀田左兵衛の月番也寛政元年(1789年)六月七月の間鼬川非常の洪水にて人家などを漂流し人命を棄却すること幾多歟 當寺は閏六月七日に出水には本堂内拭板へ泥水の漲る三寸強依之境内は土沙にて山の如し 同年の秋墓を掘り出すに深きこと五尺 而して九月二十日骨瓶大小十五あり 但當地へ移住後の遺骨ならん 先祖の骨は知れさるに由り此時掘出せし五輪の塔をを据置之を以て開基の墓と定む
十六世 普行院釋知祐 文化七年(1810年)十一月三日 寂 三十歳
文化元年(1804年)三月隣町より池魚の災を越し 哀哉諸堂不残一時の類烟となる 雖然久しからず其后ち本堂を再建成就す
十七世 釋知勇 嘉永五年(1850年)七月十一日 寂 五十歳
天保二年四月十二日 富山城下九分は祝融の起るに罹る此時亦當寺も鳥有となる同三年十月 藩主霊照院殿より恩召を以て柳町に於て四十歩余 東田地方定にて五百歩 都合五百四十余歩の地面を拝領す天保十年三月 藩主出雲守殿御代當寺由来御尋に付書上ること左の通り
拙寺開基は古梵阿闍梨 永宗院と申 而真言宗相承仕候所 四代目玄了 文明五年當宗に帰依仕 蓮如上人の弟子と相成 永宗院を永宗寺と相改相続仕来候後七代目宗玄の時天文十年 新川郡高野郷濱黒崎村に 一宇を建立仕 夫より九代目善明元和九年八月二十一日 東本願寺の末寺と相成申 本山門主宣如上人自筆を以て本尊並開山の繪讃等改て被免候 又十代目明賢慶安四年 到敷地御當地御城下内 今町に移住仕候十一代目知閑の時 正甫院様御代 寺跡御尋に付由来等書上申候 其后天和年中類焼仕 宝物等多分焼失仕候猶亦十三代目樹心院観知の代 又候類焼仕候 夫より先住代 文化元年三月四日隣町より出火仕候 悉焼失仕候其后先住 本堂再建成就仕候得共拙僧代 天保二年二月十二日御城下大変之節又候類焼仕候 都合四度迄焼失仕候元来居屋敷至而 地卑にて御城下の風下にて 殊に鼬川出水の節も折々沼江水にて難儀仕候訳 柄に付旁以乍恐歎御申上候所御聴 天保三年十月 霊照院様思召を以て柳町に於て四十歩 東田地方定にて五百四十歩余の地面拝領被仰付右地面に移住仕 全く寺務相続仕候
十八世 清晃院釋知聴 慶應元年(1865年) 七月七日 寂 二十七歳
安政五年四月二十六日常願寺川に洪水にて鼬川以東の各町は洪水に漂ひ家屋物品を流失し人命を棄るもの幾多ある 當寺亦床上に泥水の漲りたる其深さ四尺余なり同年二月二十五日夜九つ時 越中国大地震 此時立山の大鳶峰等破裂して常願寺川の源流を埋む 而して其の上流は大湖となる 然る処四月二十六日に大湖水一時あふれ出 常願寺東西両方へ激漲し 田園の損害は数万石 人家流失人命を棄るも幾千なるや 加賀富山両国主之を調ふると雖調得ること不能と聞けり 安政六年十一月十日に庫裡再建し文久二年四月本堂再建して
十九世 風航院釋智亮 明治十六年(1883年) 二月六日 寂 二十歳
明治三年閏十月二十七日藩政にて梅沢町常楽寺へ真宗東西二百余カ寺を合弁申付られ鳩居す 此時の体たらく 一々筆を禿にし紙を尽すも詳細に記し難し可懼可憐同五年十月二十八日新川県(在魚津町にて)舊旧の如く一ケ寺を申付開寺し舊地に復帰す明治六年四月十二日本堂再建 明治十五年当寺の中古の寺跡なる今町の方今住居の士族中村某の庭中より当寺門徒新庄屋某等の往古の遺骨二十余瓶を掘出し自ら按内せんに付即請取り来り墓所に蔵す 明治十八年五月三十日午後六時 富山下金屋町安田某より失火し 其時殊に西南の風は烈く 依然として六千数百戸祝融の災に罹れり 当寺亦此時類焼す 然も御尊宝物等別状なく為在たまうなり 同年十月十二日仮堂建つ
二十世 釋智順
二十一世 樹心院釋現永 昭和七年十二月二十八日寂 五十歳
大正七年十一月本堂遷仏式執行
二十二世 恵学院釋徹叡 平成十年五月二十七日 寂
昭和二十年八月一日 第二次世界大戦 敗色濃厚 富山市に空軍の大空襲あり 富山市は灰燼に帰す 当寺も鳥有に帰す 昭和三十五年 本堂再建
二十三世 願生院釋雅亮 平成二十三年九月二十三日 寂