生まれながらの願い

生まれてからの願い

 はじめに

 初めてお目にかかります。宮城と申します。新潟でこうしてお話させていただきますのは初めてでございますが、この新潟の地は私にとりましていろいろ懐かしい思い出がある町でございます。
 先ほどご紹介いただきました教学研究所へ昭和二十八年に大学を出てすぐ入れていただいたのでございますが、研究所での最初の仕事が新興宗教の調査でありまして、入ったばかりでなぜ新潟地域が選ばれたのかわからないままに、現在、大谷大学においでの寺川俊昭先生と二人で回りました。昨日こちらへ来ましてホテルから見ますと海岸に松並木が見えます。あの近くだったと記憶しておるのでございますが、創価学会の支部がございまして、そこヘ寺川先生と二人で新潟大学の学生というふれこみで飛び込み、いろいろ話を聞こうとしたわけでございます。ところが、うかつにも新潟大学には当時なかった学部を言ってしまい、(笑い)いっぺんに見抜かれてさんざんな目に会った思い出がございます。
 それからもう一度は昨年死にました家内と、家内の里の出が佐渡で、そんなこともありまして、いつも三条別院(三条市)ヘ仕事でまいるんですが、そのときに「新潟へ行くか」と聞いたら、「行きたい」というのでついて来まして、その頃はだいぶ骨に癌がまわっておったのですけれども、それほどまだ病状があらわに出ておりませんでした。まいりまして、そして、あちこち回るのはしんどいということで、十何年ぶりかで二人で映画を見たんですね。新潟まで来て映画を見て帰りました。(笑い)そういう思い出がございまして、昨日から懐かしい思いを抱いておりました。
 今回、こちらのワカボウモリさんが亡くなっていろんな思いをされたお言葉を聞きまして、なにか私の思っていることが聞いていただけるならとお引き受けしたのでございますけれども、このところ少し身体を壊し全然準備ができないままに出てまいりまして、いつも申しておりますことの繰り返しをさせていただくようなことでございます。
 講題として、『生まれながらの願い』という、こういう題を出させていただきました。

 帰るところなし

 人間生きております間は、いろいろな願いをそれぞれに持って生活しているわけでございます。人それぞれ具体的な願いの内容は違いますけれども、全部をひっくるめて言葉にすれば、やはりそれぞれにそれぞれの幸せを求めて生きておる、生きているかと思います。誰も不幸になろうとして生きている者はいないわけでして、人類全体としても、やはり人間としての幸せを求めて生きておるわけでございます。
 ところが、そういう努力を積み重ねてきた歴史とともに、個人の歴史から言いましても人類の歴史から申しましても、それでは少しでも少しずつでも幸せというものが具体化してきたかと申しますと、どうもそういうわけにいかない。かえってギスギスした世の中になってきておる。
 先日ある雑誌に載っていましたが、日本政府が日本、イギリス、アメリカ、フランス、タイ、韓国の六カ国の十歳から十五歳の少年を対象にアンケート調査をしておるのですね。少年たちの意識調査というのでしょうか。その質問の中には、「あなたのお母さんは優しいですか」とか、「あなたのお父さんはあなたを理解してくれていると思いますか」、あるいは「学校の先生はあなたを理解していてくれると思いますか」とかありました。
 驚きましたことに日本の少年の答えが一番悪いですね。優しくないというのです。それから理解してくれていない。親に対する不満を一番表しておりましたのが日本の少年でございました。そしてなによりも胸をつかれましたのは、「将来、今より良くなると思うか」という質問に対して日本の少年は、「良くなると思う」と答えたのはわずかに十五パーセントということなんです。そうしますと八十五パーセント、百人のうち八十五人は良くなるとは思っていない、ということですね。
 先ほどのご紹介にふとでました私の娘が、まだ高校のときに友達を連れて帰ってまいりまして、最初はたわいもない話をしておりました。聞くともなく聞いておりましたら、一人の子がなにかひとつ自分の理想、夢ですかね、こういうことをしたいと話しておりました。そしたら他の子がですね、別に気負ったとか特別な様子でなしに、ごく普通の調子で、「うーん、まあ、まだ十五年くらい地球もっているやろねえ」と言うのですね。それがいかにも日常の言葉のままで話しておりまして、逆にそのことに大変胸をつかれました。そんなに深刻に考えてのことではないのかもしれません。けれども私たちの子どもの時分には冗談にしろ、ふとした思いつきにしろ、まずそういう言葉は出てこなかったと思うのです。地球があと何十年かでなくなる、滅びる、そんなことは思いもしなかった。そういうことが、なにかもう日常の定まったことのように子どもが話しておる。その雰囲気に逆にゾッとしたことがございます。
 そしてもうひとつ同時に、これは、源信僧都がお書きになりました有名な『往生要集』の一番最初に地獄の姿がずっと書かれておりますが、その地獄の一番深いところ、つまり無間地獄でございますね、その無間地獄の苦しみを表す言葉の中にこういう言葉が置かれてございます。

我今無所帰 孤独無同伴(われいま帰る所なし、孤独にして無同伴なり)

 それこそ先ほど申しましたように幸せを求めて一生懸命生きてきた。自分なりに良かれと思っていろいろとやってきた。そして、いろいろやってきて今ふと気がついてみたら帰る所がない。帰る所とは同伴者のいる所でございます。同伴者というのは、私の喜びを自分の喜びとし私の悲しみを自分の悲しみとして、共に笑い共に泣いてくれる者でございます。私の人生を共に生きてくれる、そういう者が待っていてくれる所が私の帰れる所でございますね。帰って心休める所でございます。
 ところが今日、もちろんそうでない幸せなお方もたくさんおいででございますけれども、しかし、ひとつの時代的な雰囲気としては、年齢をとってそういう孤独を味わわずにすむ人は稀なのだと思いますね。私の帰りを待ってくれていないどころじゃない、もう帰ってきたのかという顔をされると、(笑)わが家でありましても帰れませんですね。帰っていても帰れない。つまり心が安らぎませんから。だからといって今から生き直すにはもはや遅い。そういう今でございます。
 若い者も今日、将来に夢が持てるとは感じていない。人生何十年間かを生きてきた者もまた孤独を今にして噛みしめておる。なぜそうなってきたのか。みんな幸せになろうとしてやってきたのに、なぜそういうことになるのか。なにかそこに、私たちがそれを生きる力としておる願いそのものに問題があるのではないだろうか。そういうことを改めて思います。

 奪われたまなざし

 そして、現在は文化が発達したと申すのですけれども、考えてみますと生活の道具が発達したのであって、生活そのものはいっこうに発達していない。生活の道具は確かに発達いたしました。
 昨日、盛岡からこちらへまいりますのに大宮で新幹線を乗り継いでまいりました。昔なら相当な時間がかかったのでしょうが、すっとまいれます。
 まあ、家内が最後に寝込みましてから娘が卒業するまでの間、炊事や家事をやりました。炊事・家事をやってみて、これはえらい仕事だということを寝込まれ死なれてみて初めて思い知りましたが、そのなかで一番ありがたかったのはやはり洗濯機でございますね。昔のように板でゴシゴシやるのでしたら特に冬場なんかとてもじゃないがたまりませんね。今は放りこんでさえおけば、洗いあがったらピーッと教えてくれますので、洗濯機はありがたいなと思いました。確かにそういう道具では大変な恩恵を受けております。しかし、生きるということ、生活そのものが発達したか。
 生活そのものとは何かと申しますと、やはりつづまるところ人を愛し人生を愛するということでございます。それが生活の実はもっとも具体的な内容なのですけれども、考えてみますと、それこそ生活の道具を買い求めるのに追い回されておりまして、さて、ほんとうにまわりの人を愛し自分の人生を愛しているかとなりますと、はなはだ心寒いことでございます。
 人を愛するということの一番もとは、その人にまなざしを向けることですね。まなざしを向けることが愛するということの一番基礎でございます。逆に申しますと、まなざしを反らす、つまり無視されることが一番つらい。まわりの人から誰からもまなざしを向けてもらえない。「いるか」とも言われない。そういうまなざしを受けられないつらさを考えますと、愛するという一番のもとはまなざしを向けることだと思いあたるのです。
 これは、よく申すのですけれども、そもそも私たちの故郷とは何か。「郷」の字は1つの器に盛ったご馳走をまんなかにして二人が向かい合っておることを表す象形文字でございます。つまりお互いの顔を見つめ合いながら一つの器のご馳走を食べあう、これが人間のあり方の一番基礎だ。故郷ですね。だから、故郷へ帰ってホッとします。故郷を実感するのは、お袋の味がしみたその料理を前にして皆が顔を合わせるときでございましょう。ワイワイ言いながら食べる。そういう時に故郷へ帰ったという実感がございます。そこにもやはり見つめ合うということが押さえられております。
 それからまた「親」という言葉。これは1つの流れ、あるいは流れを同じくすることを表す文字でして、やはり「見」が付いているわけですね。ですから、相見る同姓人というのが「親」という字の一番もとの意味です。同姓とは生命の流れを1つにしておる者でございます。そしてたとえ世間が見離しても見離さない。世間が「もう、こんな人は知らん」と見捨てても、最後まで見捨てない者が親でございます。子にまなざしを向け続ける。このように、まなざしを向けるということが人の交わりの一番もとにすえられておるわけでございます。
 ところが今日はそれが全部崩れてきております。
 料理がまずお袋の味に代わってインスタント食品になりました。このごろ東京などでは新しいアパートに炊事場がないのだそうです。炊事場などいらないのですね。デパートの地下へ行きますと、だいたいできあがったホテルの料理がずっと並んでおりまして、私もよく利用させてもらっておりますけれども、あれを買ってきてオーブン・レンジでチン!すれば、それでいいわけです。だからオーブン・レンジが置けるようにだけしてある。炊事場はない。そういう生活なのです。そしてインスタント食品を食べるときは決してお互い見つめ合わないのです。なにを見ているかというとテレビ。テレビはたとえ同じ画面見ておってもそれぞれ別々の世界なんです。
 ですからこれもよくご紹介する言葉ですが、霜山徳爾先生が、「現代の家庭はインスタント食品を囲む共同下宿だ」といっておられる。みんな自分の生活を持っていて、ただ、ひとつ屋根で寝ておるというだけのことで、その関心をそんなに家族の方に向けるわけにいかない。自分のことで精いっぱい。結局下宿しているのと変わらない。みんな何かそういうことになってきておる。お互いに見つめる、まなざしを向けるということが奪われていくわけでございます。
 それは家庭だけでない。学校でもいわゆる最新の教材が増え、テレビやワープロやマイクなど、それぞれ一人ひとり囲いの中に入り耳にイヤホンを当て、そして画面を見ている。なるほど技術的なものは身についていくかもしれません。しかし、そこではおよそ人間教育ということにとって致命的なものがあるわけでございます。そこにどんどん人間がほんとうに人間を愛することのできにくい存在に今日なりつつある。しかも、まわりの人にまなざしを向けようとする心を奪い取っていくような道具が、次から次へとこの世に溢れてきております。
 一方、たとえそういうものがなくて私たちがまなざしを向けるとしても、さて、そのまなざしが問題なのでございます。
 親鸞ショウニンは「牛羊眼」、牛・羊のごとき眼のもの、という言葉を取りあげておいでになります(「尊号真像銘文」堂典五二九頁)。聞くところでは、牛や羊は自分の鼻先しか見えないのだそうです。そういう、自分の鼻先しか見えないものということは、自分の立場とか自分の体験でしかものが見えない。そのように私どもの目はなっておる。まなざしを向けているつもりが、はなはだ危ないということがございます。

 臓器移植を問う

 このごろ脳死が問題になっております。
 ご承知のように、なんらかの理由で脳がむくみます。脳がむくんでふくらんでいくわけですが、頭蓋骨があるため一定以上は大きくなれません。すると脳の中の脳圧が高くなる。脳圧が血圧より高くなりますと血が頭に入れなくなります。血が回らなくなりますと脳の細胞は死んでしまいボロボロになっていきます。脳は死ぬけれども、心臓は脳とは別ですね。ですから脳は死んでおるけれども心臓は動いておるし、身体に血は回っておる。だから身体も暖かいし血の色もしておる。ところがお医者さんは脳圧計を見せて、「脳圧がこれだけの数字になっています。これではもう絶対に人格として元に戻りません。人格としてはもう死んでいらっしゃいます」、こう宣言するわけでございます。
 そうお医者さんに宣言されましても、家族としては、身体は暖かいしまだ息もしているし、どうしても死んだと見えない。ある評論家は「見えない死」という言葉を使っておられます。今までは誰が見ても、ああ、もう亡くなった、と頭を下げたのですけれども、現代では、決してまだ死んだとは見えないのに、お医者さんは死んだと宣言される。そして極端な場合、「この方はもう人格としては死んでいらっしゃいます。人格として死んでおられる、遺体はもう物です。その物のまだ使える部分は、その部分さえ移植したら病気の治る人がいらっしゃるので、その人に譲ってもらえませんか」と、いわゆる臓器移植を申し出られるわけでございます。
 ところが、家族にすればやっぱりまだ死んだといえないですから、とてもじゃないがふんぎりがつきません。しかしお医者さんにすれば、自分が肝臓なら肝臓を替えればまだ治るという患者さんを持っておられて、なんとかその患者さんを救いたいと熱心であればあるほど、そういう場合に強引になるわけでございますね。
 これは事実としてどうだったのか。ある病院でそういう機会がありまして、もう猶予がならん。その病死された患者の家族の承諾を待っておるわけにいかん。最後の手段として、ある薬を注入しますと心臓が止まるのだそうです。
 身体が死んだ状態になる。そうしておいて家族の人を呼び入れ、「ご臨終です」と話し、そしてまた別な注射を後で打つ。すると、また心臓が動き出す。そして血を臓器に通わしておいて移植する。臓器に血が通っていないと移植してもうまくいかないのだそうですね。そういうことを主治医が主張した。しかしまあ、その場で他の医師たちが、それはやはり少し行き過ぎだろうということで、実際には踏みきらなかった。けれどもそのとき、その医者が
「こうした例はすでに何例も実例がある」、こう言ったという記事が毎日新聞に報道されておりました。
 それについて他のお医者さんの、「それはいくらなんでもひどい。なにか話が誤解されたのではないか」というコメントがありました。実際はどうなのかわかりません。ただしかし、コメントしたお医者さんが、「しかし、技術的にこれは可能です」とおっしゃっています。技術的に可能だということになりますと、あとはお医者さんを信ずるか信じないかの問題でして、どこでされるかいっこうに分かりません、われわれ患者にとりましてはですね。
 こういう場合、結局そのお医者さんが自分が担当している患者さんだけをなんとか救いたいその立場だけで考えますと、そういうこともいつ知らず踏みきってしまう。つまり、まわりのことを考えずに、自分の心を、やろうとすることに全精力を注いでしまう。
 そのあと阪大病院のお医者さんだった人が、肝臓か腎臓かの移植のため、日本ではなかなかその状勢が整わないので、イギリスヘ渡ってそこで移植手術を行ったという記事がその直後にでてました。それについて阪大病院の先生が「日本では臓器移植について、まだ前向きの意見ばかりではないので、やむなく踏みきった。しかし、日本の患者を外国で手術してもらわなければならんというのは恥だ」、こういうコメントがございました。
 けれども、そのときに前向きということが、はたして人間にとって前向きなのか。臓器移植という問題のところだけで前向きを考えて、そのことが人間全体、人間の営み全体のなかで前向きになるのかどうか。そういう目は、そこからは抜け落ちておるわけでございます。なにか、そういう私どもの見方というものがはなはだ危ない。

 遺体は私に語りかける

 こういう俳句がございます。

 薄明や肉体即物質は涙噴けり

 ご覧になった方はおありでしょうか。テレビでも放映されました。折笠美秋、雅号が美秋。この方はいわゆる筋肉を動かす神経が全部おかされていき、手も足もなんにも自分の力で動かせない。手足だけではない、息もできない。だから物も飲み込めず詰まったものも吐き出せない。全身がじょじょに弛緩して動かなくなっていく。やがてものが食べられなくなり最後にはこの方、もう亡くなったようでございます。原因も治療法もまったく分からない病気だそうでございます。
 この方、もともとお仕事は新聞記者でございますが、俳句を作られる方なんです。その病気になられてからも、ずっと俳句を作っておられました。テレビを見て驚きましたが、テレビに出ておられるころで目が少しキョロキョロ動いて口がわずかにパカパカ動くだけ。決しておっしゃっていることなど分かるわけないのですね。ところが奥さんがその言葉を筆記しておられるのです。目の動きを読み取り、字を当てはめていって俳句を書き留めていかれておる。1つの言葉にしてもたくさんの字がありますから、漢字をずっと見せていって、思った字にきたときの目の合図を見て、それで読み取っていく。そうして作られたものがここにあります句集でございまして、そこにこの言葉がございます。
 「肉体即物質は涙噴けり」、それこそ寝られない一夜を送られた夜明け、脳死すれば人格でなくもはや物だと見る見方から見れば、今のそれこそ自分はもはや物体でしかない肉体だ。全然動かない。そこのところで折笠さんは、「泳がずとも魚か飛ばずとも鳥か」と自らに問うておられます。どこで人間といえるのか。ただ寝ておるだけの自分でも人間か。そういうギリギリの問いを抱えて生きておられるわけです。そこに、脳死した者はもはや物だという見方からすればまったく物質としか見られないその肉体から、それこそとめどもなく涙が噴き出しておる。それはそのまま肉体即物質という見方に対する全身をあげての抵抗であり、批判でございますね。
 私はご紹介いただきましたように、一昨年の暮れからこちら、大事な人、近しい人を次々といろんなかたちで失いました。家内が死に、お袋が死んで、そのたびに遺体のそばにずっと座っていたわけでございます。いわゆる脳の働きがなくなり人格でなくなっただけでない、文字どおりもう死んでしまった。それこそ見える死でございます。どう見てもその生命は既に死んでおるその遺体であっても、深い関わりをもっておった者にとりましては決して物質ではございませんですね。遺体が限りない思いを呼び覚まし、いろいろな思いをかきたててまいります。
 その時に、悲しみの深さは贈られていたものの大きさだ、と教えられました。その人を亡くしてそこに持つ悲しみの深さというものは、たとえ意識しておろうとおるまいと、その人から生前自分は多くのものを受け取っておる。その多くのものを贈られていたその大きさが悲しみの深さに比例する。生前なんの関わりもなかった人の場合、やはり私たちは悲しみを持ちませんですね。事故をまえにしても、やはり路傍の人、第三者でございます。その死に深い悲しみを持つということは、じつはそれだけ贈られていたものがある。ですから、その贈られていたものをその悲しみを通して受け止め直すということも、後に残った者の大きな仕事だと思いました。
 また同時に、遺体はそれこそピクリとも動きません。自分の力ではその逍体は動かない。動かないということは言い換えますと、その扱いをすべて後に残った者に託しておるということなのでしょう。その遺体のそばに座っておる自分とは、もう一っ言いますと、その人の生涯をどう扱うか、どう受け止めていくのか、それを託された者としてそこにおるのでございます。ですから遺体は決して物質じゃない。それこそ人格としてはもちろん、肉体としてもう死んでおる遺体でありましても、決してそれは物質ではなかったのです。
 もう一つ言いますと、遺骨になりましても物ではないのですね。
 私は、父が死にまして一番最初に肉親の遺骨に会いました。もう十八年にもなるのですけれども。私の父は生涯、寺の住職の他にいかなる肩書も付けない、そう心に定めて、それこそ一住職として生涯ご門徒の家を一軒一軒回っておりました。それだけで生涯を生き抜きました。自分から申しますのはおかしいですが、たいへん深く思索していた父でありまして、いろんな分野の方があちらこちらから私の寺に次々とお見えになりまして、ずっと寺におりましたが交際はずいぶん広い分野にわたって持っておりました。その父の
友人で大学の先生であり布教のほうでも名のある大河内了悟先生が、あるとき、「ここの親爺はひらめだ」、こう言われました。身体は土の中にもぐって目だけだしてジッと下から見とる。自分は動かずにウロウロ動いているものをジッと下から見ておる。そして一番辛辣な批判をする。そう言われまして、私も至極同感した覚えがあるのですが、なにかほんとうにそんな父でございました。私のほうは大学を出て研究所へ入れていただきましたことから、当時からあっち行ったりこっち行ったりウロウロしておりました。そういう私を、それこそ下の方から何をやっているのだという感じでずっと見ておりました。
 そういうせいでもありましょうか、父の遺骨が初めて姿のままで引き出されてきました時に、なにかこう父の声を聞いた思いがいたしました。「お前のやってることをもう一回ここから見てみろ。忙しい忙しいと言ってるけれども何がほんとに忙しいことなのか。一回この俺の骨のところから見てみろ、考え直してみろ」と、なにか私に厳しく批判してくるそういう響きを私はその骨から感じました。
 ですから、その家族にとって、つまり深い関わりをもっておる者にとっては、たとえ遺骨であれ決してそれは物質ではない。ということは、人格として死んだ(脳死した)肉体はもはや物だという見方は、初めから人格としての交わりを持っていない者の眼なのですね。
 そしてまた、人格のない肉体は物か人間か、とかくそういう議論がでます。そんな議論はまった<ナンセンスでございますね。言うならば、御本尊、これは木か御本尊か議論するようなものでございます。単なる木だという人もあるし、それはその人の人生観、人生に対する関わり方、生き方の問題であって、自分の生き方と無関係に木か本尊かという議論が成り立たないのと同じでございます。
 問題は、人格でなくなった肉体は物か人間か、ということではなく、そういう肉体をなお人間として見るか見ないか、という問題でございます。そこに私たちがもしその肉体を物としか見れなくなっておるなら、そこでは実はそれこそ人間として愛し愛される交わりは不可能でございます。そういう心の上には本当の人間としての生活は成り立たないのではないか。
 なにか遺体のそばに座っておりまして、その遺体がかぎりなく多くのことを私に語りかけてきておるのを感じておりました。そういうことを重ねてみますと、決してこの遺体も物ではない、そう改めて強く思います。けれども、現代社会はそれこそいろんな方面からたいへんな勢いで、遺体もまた人間だ、という眼を奪い取っていっております。そういうものは人間を生の面だけでとらえていく眼でしかないわけでございます。

 瓢生だけを見る願い

 しかし、人間の生命は生死する生命でございます。清沢満之先生は、「生のみが我等にあらず。死も亦た我等なり」(「絶対他力の大道」三)と、おっしゃいました。私は私の死を死ぬ。決して死は私の外なるものではございません。この身に受けております私の生命はやがて死ぬべき生命でございます。そうしてみますと、死を切り離した生のみで人間を、人生を考えるとき、私たちは必ず人生の事実を見誤ることになります。これはつまり「生まれてからの願い」と申しますものは、実は私たちが自分の意識を持ち始めてからの願いでございます。そしてその自分の意識を持ち始めてからの願いを貫いているのは自分がかわいいという思いでございます。自分がかわいいという思いを一歩も離れたことがない。そしてそれは、自分の死を思わず、生のみを拡大し延長しようとします。
 仏教で六衆生ということを申します。犬と猿と狐と鳥と蛇とワニが一本の木にくくりつけられておる。くくりつけられているものですから、なんとかわれ先に自分の行きたい所へ行こうとしてもがく。犬は村へ、猿は山林へ行こうとする。狐は塚の間、鳥は大空、蛇は逆に地の穴、そしてワニは海。みんな行きたい所が違うわけでございます。そして、われ先にと自分の行きたい所へ行こうとして暴れ回る。そのためにお互いの糸がこんがらがり、いよいよ固く結び付けられていく。結局どれ一匹も自分の思う所へ行けなかった。こういうことが仏典(「雑阿含経巻四十三)に出ております。
 この六衆生とは、もちろんわれわれ一人ひとりを指しておるわけでございます。みんな生まれてからの願いをもっておる。生まれてからの願いがみんな違うわけでございます。みんな願いが一つ、方向が1つであれば、協力して、ということになるのでしょう。けれども現実の生活のあり方を振り返ってみますと、決してそうはなりませんね。みんな各々自分を中心に考えております。
 よく座談会などで、「みんな考えが一つになったら家族がうまくいくんでしょうけれども、みんなてんでに勝手なことを考えているものですからうまくいきません」と、こう言われる方があります。よく聞いてみますと、みんなが1つの考えになったらという1つの考えとは何かというと、自分の考えですね。決して、自分の考えを捨てて相手の考えと1つになりましょう、とはおっしゃらない。そこが小は家庭から大は社会の問題にいたるまで、私どの自分がかわいいという思いは抜き難く私たちのあらゆる行動や暮らし方を染めております。そしてそれがみんなぶつかりあって 、それはまあ、そうですね。ある意味ではみんなお山の大将になろうとしているのですから。結局は相手を引きずり降ろし、自分が上になろうとする。そしてそのためにまた自分も一緒に転げ落ち、いわゆる自らも傷つき他人も傷つけることになっております。
 私どもの願いというのは勝手なものでして、私のお袋も年齢がいってからよく、「ポックリ死にたい、ポックリ死にたい」と申しておりました。まあ、お袋は行きはしませんでしたけれども、「ポックリ寺」というものがございますね。ポックリ寺にお参りしたらポックリ死ねる。バスツアーなんかでお年寄りの方がよくいらっしゃいます。
 先日、ある記事によりますと、某団体の方々がバスツアーでポックリ寺にお参りになった。そして、そのお参りした帰りのその車中で一人のお爺さんがポックリ亡くなった。霊験あらたかなんですね。霊験あらたかだから、よいよみんなポックリ寺にお参り行くようになったかというと、いっぺんに行かなくなった。(笑)いまポックリいくのは嫌だというのですね。いよいよ土壇場の死ぬ時はポックリでありたいけれども、まだまだ生きていたい。
 まことに厚かましい身勝手な願いを持っているわけでございます。だいたい、こうなりたいと言っておりながら、なってみたらビックリしなければならないことばっかりですね。それは結局、私たちは自分の生命の一部分しか見ていない。生の面だけで自分の人生を考え、生の面だけで自分の願いを立てておる。そういうことが1つそこに問われてくると思います。
 私どもの先祖は、ご承知のように「後生の一大事」ということをお互いに言いあって生きてきたと聞いております。私どもの先祖、念仏に生きた人たちは、お互いに「お前の後生の一大事はどうなっておるか」、こういう言葉をかけあって生活してきた。その「後生の一大事」、これを親鸞ショウニンでは、「後世を祈る」「生死出ずべき道をたずねる」、そういう言葉で説かれております。そこに流れておる願いとは何だろう。そういうことを改めてこのごろ問わされていることでございます。

二、生まれながらの願い

 生死無常のことわりに立つ

 私ごとでございますけれども、家内の場合は十年前に乳癌の手術をいたしまして五年ほどはよかった。五年経てばとよく申しますが、ちょうど五年目だなあ、といっておりましたら、皮膚に転移しました。その手術後、二年続いた皮膚癌もしばらく少し良かったのですが、昨年のちょうど八月末でございます。その前からだいぶ足が痛んで足をひくようなことになっておりまして、毎月定期検診にいっておりました。少しおかしいなと思っておりましたら案の定、八月の時点で宣告を受けました。
 本人が家に帰りたいと申しますので連れて帰りました。私は子どもの時分よく病気して居間で寝ておりました。すると隣りの台所で家族が食事している物音が聞こえる。一人居間でそれを聞いているのはわびしくいやでしたので、家内の場合も台所にベッドを持ち込み、食事、ともかく食べろ食べろと食べることに専念させました。ま、いろいろございましたが、最後、癌が全身にまわって残念なことになりました。
 そのとき、もう絶対に回復することはない、いわゆる死に臨んで生きている者、その家内と共に生きるというその時に、私に改めて思い返されましたのは、「生死無常のことわりに立つ」ということでございました。
 親鸞ショウニンの『末燈鈔』というお手紙を集めた書物の第六通めに、

なによりも、こぞことし、老少男女おおくのひとびとのしにあいて候うらんことこそ、あわれにそうらえ。ただし、生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぽしめすべからずそうろう。(聖典603頁)

こうお手紙が書き出されております。当時、関東で疫病や飢饉のためにたくさんの人が次々と亡くなっていった。そのことを関東のご門弟が京都におられた親鸞ショウニンに、あの人も亡くなった、この人も亡くなった、と手紙で知らせたのでしょう。それに対する親鸞ショウニンのご返事でございます。
 以前にこれを初めて読みましたときには、なんと冷たい手紙だと思いました。もう少し「あわれにそうらえ」の後にいたわりのお言葉があってもいいのではないか。それを、「あわれにそうらえ」の一言で、すぐに「ただし、生死無常のことわり、くわしく如来のときおかせおわしましてそうろううえは、おどろきおぼしめすべからずそうろう」といわれておる。なにかそのことがもうひとつ腑に落ちませんでした。
 ところが、家内がそういう状況になり、その家内とともに生活することになりますと、それこそまさに、どう同情し、どういたわり、どういまさら力を尽くしても、もう治る見込みがない。そういう者と共に生きるには、「生死無常のことわり」に立たなければ一緒に生きていけないですね。自分は死なない者、「生死無常のことわり」の外にいる者として、今まさに死なんとする者を前に置きますと同情やいたわりになるわけです。けれども、そういう同情とかいたわりなどというものは、患者本人にとってもただ煩わしいだけなのですね。
 病人の見舞いはむずかしいですね。見舞いに来てくださる方はほんとうに善意で家内を心配して来てくださって、いろいろと慰めたり同情したり励ましてくださる。まあ、ニコニコと応答しておりましたけれども、あとグッタリです。そしてやはり同情したりいたわってくれる人というのは、もう離れた世界の人になっておる。なにかその、みな共に「生死無常のことわり」を生きているものだ、ということが本当にうなずかれなければ、まさに死なんとする者と共に生きることは耐え難いことでございます。
 「生死無常のことわり」に立つ。ことわりとは道理でございましょうね。私も私の生命もまた生死する生命。同じ生死する生命を生きておる。いわば、どちらが先か後かという、「我やさき、人やさき」(「オフミ」)。そこにやはり私自身が「生死無常のことわり」を生きれる身にならなければ、共に生きれないですね。
 その時にまた改めて思いましたが、癌の告知ですね。癌であることを患者に知らせるか知らせないほうがいいか。
 この頃とうとうお亡くなりになって、お名前がよくでております千葉敦子さん。私の家内と同じ乳癌を患われて再発し手術された後で、一人ニューヨークヘ渡ってジャーナリストとして、そういう身体でそれこそ大変な仕事を残していかれました。その意志の強さはただただ頭が下がるほかありません。その千葉敦子さんの『死への準備日記』という文章が亡くなる前の週までずっと載っておりました。それを見て、日本とアメリカの医師の患者に対する態度の違いを教えられました。とにかく日本ではまだ、癌を告知すべきかすべきでないか、ずっといわれているわけでございます。
 聞いておりますと、確かに患者の心の動揺を心配して、生きていく意欲を失ったりやけになったりすることを恐れて告知すべきでないとか、あるいは心の準備をしたいこともあるだろうから告知すべきであるとか、患者側のことだけでいいます。しかし、じつは告知するかしないかの問題は、告知する側の問題ですね。つまり、私や家内の場合は最初が乳癌ですから、乳癌というのはいやがおうなしに癌とわかるわけです。初めから承知して手術を受け、それ以後の皮膚癌も承知しておりましたし、今度の最後の場合もほとんどそういうことは口にしませんでしたけれども、覚悟は決めておったようでございます。
 その告知すべきかどうかの問題は、じつは患者が動揺するしないではなく、私が耐えられるかどうかの問題ですね。私がその事実、つまり「生死無常のことわり」に耐えられるならば、そこに立てるなら、言えるはずなのです。言うた結果、その患者がどういう心の乱れをおこしてもそれを引き受けていける、受け止めていけるはずなのです。こちらにその覚悟ができませんと、もし患者に絶望されたらとてもじゃないが、という気になってまいります。そこで言わずにおくことになるのでしょう。
 共に生きるという時には、常に自分自身のあり方が問われておるのでございます。そこで、私自身が「生死無常のことわり」に立てるか立てないか、そのことを深く厳しく問い詰められた、そういう思いがいたしました。

 人骨をもって行路のしるしとなす

 そして、死をみつめながら生きるところに立ってみますと、じつに多くの人々が自らの死をみつめて生きた生活の中からたくさんの言葉を残してくださっていることに気がつきました。
 初めは、患者の心理あるいは副作用がでてきた時の患者の動揺のしかた、そしてそれに対してどう対処したらいいか、それを学びたいと思いまして、そういう本を見ておりました。つまりたいへん功利的に読んだわけでございます。それが読んでいきますうちに自然と、「骨道」という言葉が頭に浮かび、私のなかに根づいたといいますか、残ったのでございます。残りながら、はてな、これはどこかでなにか聞いた気がすると感じながら、もう一っ思い出せませんでした。
 ところがその年、一昨年の暮れに テレビで「シルクロード」の総集編が大晦日の日にございまして、その画面を仕事の合間にチラチラと見ておりましたら、たまたまそこに骨道、「人骨を臨んで道のしるしとなす」という言葉がでてきたのです。あっと思いまして、改めてその書物を開いてみました。
 ご承知の孫悟空の物語になりました玄奘三蔵。中国からインドヘ、いまでこそシルクロードは観光道路として開けておりますが、当時は大変な道なき道を通って経典を取りに行かれた。その玄奘三蔵よりもさらに先に、西暦の三百年代にインドヘ経典を取りに行かれたのがホッケン三蔵。そのホッケンという方のその道中の苦難を記した文章の中に、「上無飛鳥下無走獣 四顧茫茫莫測所之 唯視日以准東西 人骨以標行路耳」(「高僧ホッケン伝」)とあります。
 空に飛ぶ鳥もなく、大地に走る獣もいない。周囲を見回してもただ茫茫゜なんの目印もない。わずかに太陽が昇ったり降りたりするだけで東西を知る、とありまして、そしてその後に、遥かに人骨をもって行路の道標とする、ということがそこにうたわれてございます。
 ああ、これだったなあ、という妙な感覚がございました。
 つまり自分に先立ってその道を歩み死んで行かれたその骨が私を導いてくださる。道しるべとなっておる。その骨とは、その人の存在、生涯全体をかたどる。つまり、その人が帰すべき所に帰した形でございます。帰すべき所に帰した形を通して、私どもにその歩むべき道を示してくださっておるのが遺骨でございます。
 同じ病気を病み、その病気と闘い、そして先立っていかれた人たちの残してくださっているお言葉が、限りない導きとなり、力となって支えてくださるということを、そのとき痛切に感じました。

 死の自覚が生への愛だ

 よくご紹介するのですが、たとえば高橋やすよという方の『真っ赤なバラが37本』という本がございます。この方の場合は、結婚されて長いこと待ち望んでいた赤ちゃんが生まれ、大喜びで幸福に浸っていたのも束の間、赤ちゃんの顔がまん丸にお月さまのように膨れあがってきて、お医者さんを回ってもどこへ行ってもわからない。あちら転々こちら転々して最後にわかったのが小児癌。たしか腎臓でしたか。その赤ちゃんが入院しているうちに今度はご主人が癌で倒れられて、同じ病院に上と下で入院しておられて、すよさんは上ったり降りたり、そういう生活をしておられた。そして赤ちゃん、坊やは五つのとき亡くなるわけですね。2カ月遅れてご主人も三十七歳で亡くなられた。そういう大変な体験をしておられるわけです。
 その方の場合、ご主人は、自分が癌だということを教えられた。さらに奥さんは大変な悩みの末に、医者から言われた、あと寿命はこれだけだ、ということもご主人に言われるわけですね。そして、もちろん抱き合って泣くということがあったようでございますが、その中からご主人は「自分はこれだけのことはしておきたい」と。その方は考古学に関心を持っておられ、高校の先生をしておられた。それで、靴も履けなくなって、副作用でか癌のせいでかボンボンに腫れた足にワラジをくくりつけて杖にすがって、亡くなる三カ月前まで学校に通い教壇に立たれた。そうしますと近所の人が非難するわけです。「あんなになっているご主人をまだ働かせている。もういいかげんに病院入れてあげて治療させてあげたらいいのに」、こう言って非難する。
 それからその坊やが、一度連れてってもらったことがあるんでしょうね、
「駅前の喫茶店でアイスクリームが食べたい」と。骨と皮だけになったようなその子を乳母車に乗せて、そこへ連れていってアイスクリームを食べさせる。するとまた近所の人が非難する。「あんな子どもを連れ出して、アイスクリームくらい自分で買うてきて食べさせたらいいじゃないか」と非難する。そういうことがあったようでございます。
 それに対して高橋やすよさん、書いておられるのですね。「私たちには、「また今度ね」とか、「治ってからね」という言葉がないんです」。つまり、もう治る見込みはない。だから子どもを「治ってからね」となだめることはできない。もう、いつ死ぬかわからない、今日か明日か。だから、「また今度ね」なんてことは言えない。「だから、私は今その人が(夫が)また子どもがしたいと思っていることを、一緒になって、なんとかし遂げさせてやりたい。それだけを考えている」と書いておられます。
 そういう文章を読みますと、ふり返ってみれば私たちはほんとうに、「また今度ね」とか、「○○してからね」、すぺて日常、順送りで送っているわけですね。ほんとに「また今度ね」、「また今度、また今度」でございます。子どもに対してもだいたいそうでございますね。「忙しい。また今度」「この仕事が片づいたらまた今度」。テレビのコマーシャルでございますと、子どもがお母さんをつかまえてなにか話しかけようとすると、「忙しいから、また今度ね」。今度はお父さんが来て、お父さんに言おうとすると、お父さん「ああ、忙しい。また後で」。そのたびに、お母さんと子ども、お父さんと子どもの間の隔たりが遠くなる、そういう何のコマーシャルだったか商品の名前忘れましたが、そのシーンだけが印象に残っております。
 なにかそういうことが私たちの日常でございます。そこに今回のテーマのサブタイトルに付けました「死の自覚が生への愛だ」という、これは京都大学の田中美知太郎というギリシャ哲学の先生が、この方ももう亡くなりましたが、書いておられる言葉でございます。「死の自覚が生への愛だ」、つまり、ほんとうにもう後がないと知ったときに、今という一瞬はかけがえのない一瞬なのですね。それこそ、「また今度」とか「してからね」と後へ順送りできる今ではない。そこに、私たちは自分が死ぬことを忘れておる時には、「また今度、また今度」で、平気で生きているわけでございます。かけがえのない生命には変わりはないのに、そのかけがえのない生命をついうかうかと押しやって生きておる。

 死にきれるか

 やはり癌で亡くなりました田中裕三という方ですが、その方は癌でも生きられるということを、その方も大変な苦しみを乗り越えて、そういう人生に対する姿勢を開かれ、そのことを亡くなる直前まで呼ばれればどこへでも出かけて話をされていました。そして亡くなりましたが、その方が講演のなかで「お医者さんがあと三カ月と言ってくれる。後まだ三カ月あるというのはうれしくもない。私にとっては今が、今がうれしい。今がうれしくなくて三カ月経ったって何もうれしくない。今うれしい一瞬があるからこそ、その今の延長である三カ月も喜べる。たとえあと三カ月あるとしても、今のいまが喜べないならそれは空しい」ということを言っておられます。
 そういう文字どおり自分が死ぬことを思い知るとき初めて「ほんとうに生きたい。ほんとうに自分の人生は何だったのか」が問いになる。それは、あとニカ月と言われて寝ておる家内を前にして、やはり胸にきますものは、家内の生涯は何だったのかという思いでございました。
 はなはだ家を留守にばかりしておりまして、この頃はだんだん娘が家内に似てまいりまして、「今月は家に何日いましたか」と叱られる。こちらは仕事だと思っておりますが、それはダメでございますね。やはりそういう後ろめたさがありますので、よけい家内の生涯、なんだったのかということが胸にいつも残っておりました。
 なにか自分の人生が丸ごと問いになる。自分が死ぬことを忘れておる時には人生の部分しか問題にならない。死ぬことを忘れている時には、あそこがああだったらいいのに、これがこうだったらいいのに、あいつがこうしてくれたらいいのに、といろいろ思います。けれどもほんとうに死ぬことを自分の事実として見つめた時には、案外そんなものは消えてしまいますね。そして全体として自分の人生が丸ごと問われてくる。いったい何なのか。自分はこの人生全体をあげてはたして何をしようとしたのか、何をしてきたのか。そしていったいどこへ行こうとしておるのか。そういうことがなにか初めてまるまる問われてきた。
 そういう問いに生きたのが私たちの先祖。「後生の一大事」を問うた先祖の生き方でございます。「後生の一大事」を問うとは、死ねるか、ということを問う、ということです。
 私の勤めておりました研究所に当時東京に分室がございまして、そこに勤めていてくれました若い友人が30代で骨癌で、もう十年ぐらい前に死にました。見舞いに行きましても言葉が出ないのですね。言葉を失ってただ立っておりましたら、かえって患者の彼の方が、「人間、どたんばになると言葉ないですね」と慰めてくれたことがございました。彼に北海道の親友がおりまして、その親友はほとんど半年近く彼が入院しているあいだ寺を空けて病床にずっと付いておりました。亡くなる前に彼はその親友に何度も、「死にきれなかったら愚痴と恨みしか残らんのだなあ」と言っておったそうです。
 人間死にきれなかったら愚痴と恨みしか残らない。ほんとうに死にきれるということは生ききったということでございますね。死にきれるとは生きたことが喜べる時でございます。ほんとうに自分は生ききったという、そういう思い、そういう自覚がない時にやはり死にきれないのでしょう。死にきれなかったら恨みと愚痴しか残らない。ですから「後生の一大事」とは死にきれるか、ということであり、死にきれるかとは生ききっておるかという問いでございます。お前はほんとうに生ききっておるか、そのことをお互いに当時の念仏者は言葉をかけあってその生き方を促したのだと思います。
 今日ではその「後生の一大事」という言葉をなにかナンセンスな言葉のように軽んじてしまいました。そして、ただ生の面のみを見つめて生きております。そのためにかえって人生バラバラになりました。人生を丸ごと問うことが失われてまいりました。なにかそういうことを改めて思うわけでございます。
 そして日々の生活をふりかえってみますと、先ほど申しましたように、「自分がかわいい」。この言葉はじつは金沢の近くの松任にお住まいの浅田正作という方の言葉です。

自分が可愛いい
ただ それだけのことで
生きていた
それが 深い悲しみとなったとき
ちがった世界が
ひらけて来た

 浅田さんの場合、どういうことが縁となって深い悲しみとなったのかわかりませんけれども、「それが深い悲しみとなったときちがった世界がひらけて来た」、そうおっしゃっております。
 確かに私たちの人生、毎日の生きざまをふりかえりますと、自分がかわいいというほかにございません。

 かすかなる善心

 ご承知のように善導大師は「二河の譬喩」で貪欲.瞋恚の二河を言っています。貪欲はむさぼりの水の河。瞋恚は瞑り腹立ちの火の河。この貪瞳二河は底がなく辺りがない。これだけという限界がない。そして、ここまでかと思うとまだ先がある。辺りも見えない。つまり貪眼二河以外のなにものでもない。貪瞳二河のあり方を言うとすれば、自分がかわいいということでございます。そういう貪瞋二河以外の何ものでもないのが私たちの日々のあり方でございましょう。
 ただそこに、

善心微なるがゆえに、
白道のごとしと喩う。(「観経疏」聖典220頁、教行信証所引)

とございます。貪瞋二河以外の何ものでもない私のなかに善心、つまりよき心がかすかにある、こうあるのです。その「かすか」という意味は、全体のなかのちょっぴりだと、そういうことではございません。私の意識よりももっと深いところ、自分自身でも気づかないところに善心がある、という意味でございます。
 この「微」とは、私どもの意識よりももっと深いいのちそのものに根ざしておる心ということでございます。私どもの意識は自分がかわいいというところを一歩も離れない。一歩も離れたことがない。けれどもその私の生命のなかには、意識よりももっと深いいのちそのものに根ざした心として微かなる善心がある。
 実は、この「善心」を善導大師は「清浄願往生心」だとおっしゃっているのですが、親鸞ショウニンは、そういうものとしては「善心」などみとめられません。罪悪深重煩悩熾盛の身と決定しておられます。ただしかし、そう
いうわが身の生活の現実に苦悩し、また不安を感ずる、というものがある。
 ご承知のように仏教では人間を「機」という言葉で呼びます。そして、この機を宜・微・関の三つの言葉で教えられております。「機微」、つまりかす
かなものをもっておるもの、意識よりももっと深いところにいのちそのものの頓いをもっておる、そういう意味がまず「微」という意味でございます。
 そのかすかなものは一番具体的にはどういうかたちで現れるかといいますと、不安。私たちはみんな何か不安をもっております。不安を感ずるとは、考えてみますとおかしな話でございます。つまり、こういう時には不安を感ずるものだとか、不安の感じ方はこうして感ずるのだとか教えられたことはいっこうにございませんね。誰に教えられなくても何かしら人生に不安を感ずる時がある。不安というのは文字どおり、なんだか知らないけれどなにか不安ですね。つまり不安とは何かというと、今のあり方は確かか、という問い返しなのですね。私のなかに私のあり方を問い返すものがある。ですから「不安とは本来なるもの、確かなものからの呼びかけだ」、こうおっしゃった方がございます。なんとなしに自分の生き方に不安を感ずるのは、今の私の生き方にそれでいいのか、となにか問うものがあるのでしょう。
 それを私たちは不安になると、なんとか不安を感じないように不安を消すように努力するのですね。お札をいろいろ貼ってみたり、お祈りしたり。
 これは住職としてまことにお恥ずかしいのですが、だいたい家内が乳癌になりましたのは、ちょうどその年、私の寺も三百年ほど経っておりまして本堂の屋根が持たなくなりまして、屋根の葺き替えをご門徒の皆さんの力でさせてもらったのですけれども、大変な工事でございました。その間、出てばっかりいた私に代わって家内が頑張ってくれたのですが、その後、癌になってしまいまして。
 その年はまた、私が凍っていた道に足をとられ三条大橋のたもとで滑って右手を折ってしまいまして、それから母が白内障で入院し、そういうことが続きました。そうしたら、私の寺は京都でございますが、ご門徒の中に祇園のお茶屋さんの女将さんがいらっしゃいまして、お参りに行きました時に、「ご院主さん、だいたい工事する日、ちゃんと調べてもらいましたか」と。悪い日に工事始めたのと違うかということですね。そういうことを言われたことがございます。
 その時も少し理屈っぽい言い方をしてしまったのですが、神さまというのはほんとうに親切でございまして、私たちに欲望の数だけ神さまが出てくださる。神さまは俗に八百万の神といいますが、八百万というのは煩悩の数でございますね。人間の煩悩の数だけちゃんと神さまが出て応えてくれるわけです。このごろですと、交通地獄、交通事故が非常に大きな問題になってきますとちゃんと交通神社というのができるのですね。京都の岡崎に前は別の名前だった神社が、いつの間にか交通神社という名前になって交通安全のお札を渡す専門の神社になっているのです。そういうように新しい不安がでてきますと、ちゃんとそれに応える神さまがでて、お札を売ってくれる。
 しかし、ひとつだけ売ってくれないお札がございますね。時間を止めるお札でございます。時間よ止まれ、と言って門の前にその札を貼ったら家の中の時間が止まる、そんなお札はどこにもないのですね。時間を止められないということは、私が老いていくことは止められないということですね。そして老いはやはりそこにおのずと病気を伴い、やがて必ず死ぬということにつながっている。つまり一番根本の時間の流れは止められない。それで無病息災といってみても、それは気晴らしでございます。老いることを止めるわけにいかないし、死ぬことを止められない。仏教は老病死するという事実から出発しておるわけでございますね。それなのにやはり私たちはなんとか不安をお札やお祈りでまぎらわそうとする。

 不安こそいのち

 これも浅田正作さんと同じ金沢のお婆さんで山崎ヨンという方ですが、そのお婆さんが十九の時に男の人に騙されて父なし子を産む。生まれた赤ちゃんが身障者。その身障者の子たちを抱えて一人で行商でずっと生き抜いてこられたお婆さんでございます。そのお婆さん、たいへん熱心なモンポウ者でありまして、そのお寺の若い住職がそのお婆さんのところへいって話を聞いたその聞き書きがあるのですが、そこにこういうことをおっしゃっている。

 こないだも、ある新興宗教の方がこられて、「婆ちゃん、不安ないか」とおっしゃる。「ええ、不安ありますよ」というと、その人、「不安あるでしょう。わたしら、その不安をとる会を無料でしとるさけ、婆ちゃんもそこにいって、不安とってもろたらどうや」といわれる。

 どこかの新興宗教でございましょうね。不安をとってあげる会を無料でしてるからと勧誘に来られた。それに対してその山崎ヨンさんが答えておられるんですね。

 そうか、ご苦労さんやねえ。不安の世の中でねえ。そゃけどこの不安、あんたらにあげてしもうたら、ウラ、なにを力に生きていったらいいがやろね。不安は私のいのちやもん。

 そう言っておられるのですね。山崎さん。
 つまり不安があるからこそ、こんな私でもまことの言葉聞かずにおれない。モンポウせずにおれない。教えに遇わずにおれない。不安があればこそ、この私は今日まで歩かされてきた。不安が私のいのちだ。「不安をあんたにあげてしもうたら、おら寝そべって人生空しく無駄に生きるだけになる。何を力に生きていたらええがやろうね」。そういうお婆さんを惑わすものはもうないでしょうね。

 人に法蔵あり

 実は不安とは、そういうまさしくまことなるものを求めさせる、今のままでいいのかと私の生き方を問い返してくる力なのでございます。そういうものが私の生命のなかにうごいておる。それは自分で起こした意識じゃない。自分が意識して起こしたものじゃないし自分が勉強して起こしたものでもない。意識しておるものは自分がかわいいということしかないけれども、その私を深いところから不安はないかと問うものがうごいておる。
 実はそのかすかなものを、私の意識にものぼらないいのちの叫びを、呼び覚まし私どもに自覚せしめてくる言葉が仏の言葉、仏法の言葉なのでしょう。仏教の教えとは何か新しいことを私たちに教えて付け加えてくださるのではない。私自身が意識しない、いのちそのものの叫びを私どもに呼び覚ましてくださる言葉でございます。
 私の先生がいつもおっしゃいました。「みんな、モンポウして聞いた言葉で救われると思うているけれどもそうじゃない。救いは、モンポウするために家を出さした力のなかにあるんだ」。いろんな事情やいろんな思いで、たとえば今日もここへおいでだと思うんですけれども、思いはいろいろでありましても、ともかくそこに今日私をしてここに歩ました力。生命のなかにある、その私を押し出しておるものに気づかされる。出遇い直していくところに道がある。
 ですからそれを「法蔵」、法蔵とはすべての人に埋まっておるいのちの鉱脈。鉱脈という意味が蔵という、アーカラというインドの言葉にあるわけでございます。みんなのいのちのなかに埋もれて、それこそ自分がかわいいという思いで覆われて気がつかずにいる、そのいのちの一番深い叫びをいいあてた言葉が法蔵。
 そして、「法蔵菩薩」とはすべての人びとに法蔵ありということを明らかにしてくださった名なのです。法蔵菩薩の本願は決して法蔵という人の本願を聞いていくのではない。私自身の本願を聞くことなのですね。法蔵菩薩が私の法蔵を掘り起こしてくださる名であったのです。
 そういう私たちの生命のなかにかすかなもの、しかし確かなもの、そういうものがうごいておる、息づいておる。それを私たちは自分がかわいいという心で覆い隠しておる。その私たちに深く根ざしておるもので呼び覚ましてくださる言葉が「微」でございます。そしてそれは先ほど申しましたように、促しであります。私たちはみんな私自身を促してくるものをもっている。その促しは具体的な生活の上では不安から始まっておる。
 同時に「宜」というのは、たとえば私に先だって同じ道を歩んでくださった人の言葉にうなずく、感動する。そういう感動する心をみんなもっておる。自分がかわいいというところからいえば、他人の言葉に感動することも実は不思議なことでございます。しかしほんとうに自分自身がそういう場に立って初めて他人の言葉が聞き取れた時に、感動しておる自分自身に出遇うのですね。感動してふと気がついてみたら、そうだったとうなずいている自分自身に気づくのでございます。頭でうなずいて感動するのではない。
 そして、その気づいた時にはそれは必ず歩みになる。「機関」でございますね。機関とはエネルギー、エンジンでございます。つまり歩みになる。歩むまいと思っても歩まされる。うなずいた事実につき動かされる、そういう存在。そういうものとして私たちを呼びかけておられるのが「機」という言葉でございます。
 そういう「機」という言葉で押さえられております、かすかないのちそのものの願い、それを掘り起こしていきます歩みがモンポウだと、そう私は教えられております。

 自らを問い返す

 そうしてモンポウする者、つまり仏弟子は、ですから常に自らのあり方を問う者でございます。俺はこれだけのことをやっていると自慢するのは仏弟子ではございません。促しておるものに常に出遇い直していく。仏弟子をその意味でひっくくれば、自らのあり方を常に恐れ問い返す者でございます。
ゴウについて仏教ではイゾウゴウ・ミゾウゴウということを申します。
 イゾウゴウは既に造ったゴウ、ゴウとは行為ですから、既に行ったこと、その既に行ったことは、つまり、たとえば悪いことをしたという、どんなに悪いことでありましても既にしてしまったことは1つの形をとっておる。限定をもっておる。まあ、私たちは普通自分のしたことを悔いて謝る。懺愧する時もだいたい自分のしたことを悪うございましたと謝る。もうひとつひどいときには法律で決まった罰を受けて、それで身をきれいにしてと、こういうわけでございます。
けれども、仏教ではそのイゾウゴウよりももっと深くミゾウゴウを問うのでございます。ミゾウゴウとは未だ造らざるゴウでございます。ミゾウゴウを恐れる。
 ミゾウゴウを恐れるとはどういうことかと言いますと、親鸞ショウニンのお言葉では、
「さるべきゴウ縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」(「歎異抄」聖典634頁)ということでございます。そういうわが身を恐れる。どんなに立派なことを言っておっても、どんなに立派なあり方を誇っておっても、縁があるときにいかなるふるまいをもなす。どういうことを自分がしでかすかわからない。イゾウゴウだけで見ているときには、私はこれだけのことをしましたということですけれども、ミゾウゴウになりますと、何をどれだけのことをしでかすかわからん自分ということですね。そこに初めてほんとうに、わが身の生き方を常にまことなるものに照らして問い返す、ということがあるのでございましょう。

 共に帰する世界

 今日私どもの生き方は、より理性によって生きております。理性を間違いのないものとして私どもはその上に人間の文化を築いてまいりました。しかしその理性は、やはり押さえてみれば先ほどらい申しております、自分がかわいいという思いを一歩も出たことがない心でございます。
 先日北海道へまいりました時にたまたまホテルでテレビを見ましたら、北海道で釧路湿原が1つの話題になっておりました。釧路に水草が生えておるだけの湿原が広がっておる所がございます。今までは何にも利用してみようがない所としてうち捨てられていた。今度、そこが国定公園かなにかになるのですね。それで確か政府でしたか北海道道庁でしたか、観光の1つの施設を造る。そういうことが決まりました。そしたらとたんに不動産屋さんが次々と入ってきて、その湿原のあちこちを買い占めはじめておるわけです。土地が上がる。テレビ画面に釧路湿原全体の地図が出まして、点々と黒く不動産屋さんによって買い占められた場所が、ここも買い占められた、ここも買い占められた、とついていくのですね。
 それを見ておりまして、ハッと、なにか見たことあるなと頭にきまして、よく考えたら家内のレントゲン写真ですね。身体の全身に、ここにも移っています、ここにも移っています、これも癌細胞、これも癌細胞だと、医者に見せられたあのレントゲン写真。身体中に点々と移っておるその癌細胞、それとちょうど同じ。釧路湿原全体の地図のなかに点々と増えていく黒点ですね。それを見ておりまして、ひょっとすると人類は地球の癌細胞ではないかという思いが強くいたしました。
 現在、人間が理性で築いてきた文化がこの地球上の生命の調和を次々と破っていろんな危機を招いております。しかも二度と取り返しがつかない状況になっておる。それは常にそれこそ自分がかわいいというそのままに、人頬がかわいいということしか頭にない。
 ご承知と思いますが、高史明という方のお言葉をお借りしますと、「現代人は山に木材を見て木を見ない」。つまり「木材を見る」ということは、ここでなんぽ取れる、なんぽ儲る、利益の対象としてしか山を見なくなっている。一本一本の木の生命に少しも共感しない。ただ自分がそれを利用するという目でしか見ない。それは私たちがあらゆる面でやっておることでございますね。海においても川においてもあらゆる面でそういうことをしております。人類が理性を立場にして自らを問い返すことがなくなったとき、つまり「後生の一大事」といういのちをまるまる問い返す眼を失ったとき、人間は限りなく傲慢な存在になり、その周囲全体を無視して、ただ欲を追い求める存在になってしまったのではないか。
 そこに今一度私ども一人ひとりが、そして人類全体が自らのあり方を恐れる、そういう心を呼び覚まさない時には、それこそ現代の子どもたちをして、「あと十五年はもつかな」と言わせるような雰囲気をいよいよ強くしていくのではないか。そういうことを改めて思いました。
 私たちの「生まれてからの願い」は自分がかわいいということしかないけれども、そうしてそのことだけで生きておりますけれども、しかしその一人ひとりの心のなかに、いのちそのものの「生まれながらの願い」がある。その「生まれながらの願い」は、最初申しました無間地獄の言葉を借りて言えば、人びとと共に帰することのできる世界を求めておる。そういう場を求めておる。そういう場を親鸞ショウニンは実は「浄土」という言葉であらわされた。すべての者の帰するところであり、すべての存在と同朋として友として出遇える世界、そういう世界を求めておる。その生まれながらのいのちが抱えている願いを、私どもはそれこそ教えを通して聞き直していかなければ、いよいよ私どもは自らの手でこの自分たちの生活を、歴史を、そしてこの地球を失うことになるのではないか。
 そういうことを、特に私は釧路湿原のテレビの画面が非常に強烈な印象として残っておるわけでございますが、この、強く感じておることでございます。
 なにか、たいへんまとまらない話になってしまいましたけれども、私どものなかに「生まれながらのいのちの願い」があり、お互いにそのいのちに呼びかけ互いに目覚めていくことを、どうかその歩みとしたいと念じておることでございます。